〇〇ファーストより、俳句の精神が世界を救う?
〇〇ファーストより、俳句の精神が世界を救う?
俳句の世界のような寛容な仕組みは、性悪説では成り立たない、経済的効果が大きい時は機能しにくいです。そして、人の本能は欲望であることを勘案すると、俳句の世界のような寛容な仕組みはかなり例外的です。
ヒーズ株式会社の岩井徹朗です。
先日テレビで俳句の出来栄えを競う番組を見ていたら、出演者の一人が盗作疑惑でいじられていました。
どうやら前の時に優秀だと褒められた句にそっくりの句が新聞に出ていたとかで、それをパクッたのではないかと言われている模様です。
ご本人は否定しており、その真偽のほどは知りません。
けれども、その番組に出ている俳句の先生によると、
「俳句は五七五という十七文字で作るために、同じ情景を詠むと似たような作品になることがある」
という説明の後、
- 俳句の世界では性善説に立つので、似たような句があっても基本的に盗作とは見なさない
- その代り、先に似たような句があると分かった時は、後から作った人は、それ以降、似ている自分の俳句を自分の作品とは言わない
ということでした。
これを見た時、私は「〇〇ファースト」が横行する世の中にあって、実にスマートな解決方法だと感じました。
もちろん、これは性善説に立ちます。
それゆえ、一人でも悪人がいて、人の作品を真似しながら、「これはあくまで俺のオリジナルだ!」と主張し続けると、機能しない仕組みです。
また、俳句であれば、経済的な影響力は比較的小さいですが、これが技術開発になると、時には何百億円、何千億円という話になるので、やはり何らかの対応策を立てる必要があります。
つまり、俳句の世界のような寛容な仕組みは
- 性悪説では成り立たない
- 経済的効果が大きい時は機能しにくい
のです。
そして、人の本能は快楽を求めることを勘案すると、現実的には、俳句の世界のような寛容な仕組みはかなり例外的であると言えます。
では、このような事実を踏まえた上で、どう対応するのか?
ここから先は、各人の考え方の問題です。
徹底的に対立する道を進むのか、たとえ裏切りがあっても可能性を信じて、融和の道を歩むのか。
どちらが正解で、どちらが不正解ということはありません。
一番いけないのは、どっちつかずの状態で、大きくぶれてしまうことです。
最近はなるべく構造的に物事を見るように意識しているので、
多くの問題が前提条件の違いから生れている
のが理解できるようになりました。
先の俳句の例で言えば、性善説を信じるか、性悪説を信じるかで結論は大きく違います。
そして、善とか悪とかいう概念も人が後付けで決めたことであり、人の本能は快楽を求めることであるのを踏まえると、俳句のような寛容な対応は、例外中の例外であることが分かります。
それゆえに、盗作に関する俳句の解決方法に、ある種の憧れを抱くのかもしれません。
そして、文化と呼ばれるものの中に、現在世界でいろいろと起こっている争いを解決する鍵が潜んでいるように感じます。
日本の場合、8月は嫌がうえにも戦争を意識させられる時期です。
そして、戦後73年経っても、日本は第二次世界大戦の敗戦国という構造の中にいます。
この事実を冷静に踏まえた上で、戦争という手段に訴えずに世界の中で新たな構造をどう作り出していくのか。
お盆休みになるこの時期に、一人ひとりが自分の頭でじっくり考えてみる必要があるように思います。
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